1997年11月4日(火)
23歳

本、の夕方。

「ナチュラルウーマン」
松浦理英子著
トレヴィル発行

同性愛のお話。
河出から出ていたのを持っていたが、河原町で見かけたのでトレヴィルの方も買った。

同性愛者の友人がいる。僕はよくわからない。
わかろうとしていないのか、わかりたくないのか、
それもわからない。

夜話す。
夜に話すといつもおかしな話になる。
泣いてばかりいる子猫ちゃん。
おれは犬のおまわりさんにはなれない。

1997年11月3日(月)
23歳

晴れた日は嫌い。祝日、の疲れた夜。

web上で書く日記は安いエンターテイメントでしかない。

「日記」という体裁を利用した欺瞞ショーだ。この1ヶ月でよくわかった。
演技じみてけばけばしい自分が憂鬱だ。

あまり他人ごとに関心がない。
不特定多数の人に向って何か言わなきゃならない、言いたいことがあるのはすごいことだ。
もちろん皮肉だ。

芸術学などというものを専攻している。
専門書を読み、詳しく史実を調べ、「ゲージュツとはナニカ?」を考えれば考える程、それを言葉で表現するのが恥ずかしい。

言葉はいやおうなく冷める。
僕の大事な部分をわざわざ人前で訳知り顔にしゃべるのは面映ゆい。
罪悪感とか贖罪という言葉をよくひきあいに出すのはそのせいだ。

君に伝えたいことは何もない。
あったとしても言いたくない。

1997年11月2日(日)
23歳

愛する季節、時間帯、日暮れ

とろとろと溶けていきそうな秋、夕暮れ。
ふと気付くと窓の外は暗い。
心の中に不確かな高まりを感じながら、一日何箱めかのタバコを買いに出る。

吉原幸子は「おそろしさとは/ゐることかしら/ゐないことかしら」と書いた。
二十歳を過ぎてから「さびしい」「かなしい」がピンと来なくなりつつある。
それにとってかわったのはどうしようもない不在感。

立原道造「晩秋」より抜粋

あはれな 僕の魂よ
おそい秋の午后には 行くがいい
-
おまへが 友を呼ばうと 拒まうと
おまへは 永久孤独に 餓ゑてゐるであらう
行くがいい けふの落日のときまで
-
すくなかったいくつもの風景たちが
おまへの歩みを ささへるであらう
おまへは そして 自分を護りながら泣くであらう
1997年10月30日(木)
23歳

雨降って晴れて木曜、午後。

あの人から。

「青空」
清岡卓行

遥かに遠浅のざわめく海の底を
水平線へ向かって歩く自殺者が
しだいに静まる周囲の波の中で
はじめて味わう完璧な孤独のように。

追いつめられて真に戦おうとする弱者が
親しい仲間の誰をも信じられず
思いがけない別れの町角で ふと抱く
悲しく冷たいこころの泉のように。

どこまでも澄みきって遠ざかる青。
しかし そこから滲みでる優しさだけが
今日のぼくの夢のない痛みを支えるのだ。

ああ 酷たらしい愛と怒りのうた。
そのしたで繁茂する懐かしく不気味な都会よ。
1997年10月29日(水)
23歳

もう冬、の未明。水曜

映画「柔らかい殻」
淡々と皆死ぬ。


「汚れた血」
10回目。

「それから」
松田優作と藤谷美和子。

インド映画は現地でいっぱい見た。
上映時間4時間(途中休憩がある。)は長過ぎる。

福永武彦を読み返す。