1997年12月24日(水)
23歳

イヴ。寒さで目の醒めた、夜。

道に迷った。
わざと迷ったのかもしれない。
「迷った、迷った」と思うことでこれからすべきことを、どこか知らないところに置いてこようとしたのかもしれない。

大阪から和歌山へ抜けて、このまま海沿いを行けるところまで走ろうとしていた僕の車は、一瞬で唐突な憂鬱に襲われて京都へ進路を戻した。

今まで途中で引返したことなんてなかったのに。
引き返すことのできる道を選んだことなんてなかったのに。

夜半過ぎに京都に着く。
何となく家のドアを開けるのが嫌で、停めた車の中で大黒屋で買った生のキャベツを噛む。
生のキャベツの味がする。
スーパーで買った生のキャベツの緑はいかにも真っ黒な車内に映え、助手席に座らせて眺めてみたりする。キャベツとドライブもイヴにしては悪くない。
楽しい時間が先にあるとその分だけ憂鬱が濃い。
生のキャベツの味みたいに濃い。

道に迷ったのは帰る意志があったからだ。

2年前、日本中の美術館をまわろうと思い立って車中泊で際限のないドライブを続けた。
その時はどんなに知らない道を走っていても前のベクトルに向って走るような昂揚があったし、「迷った」と自覚することもなかった。たとえ目的地に最短経路で到着することはできなくても、その分だけ違うものが見れて幸せだと思った。

ずいぶん前向きな話だ。

今は後ろ向きなのか、と聞かれたら案外そうでもない。
ただ、人といる時とひとりでいる時の差が大きくなっただけにすぎない。

目覚めることのない夢を見る。

1997年12月21日(日)
23歳

その時間。

また某先輩と飲む。
二人でタバコをふかす。気がふれたようにふかす。
アトリエでも二人でふかす。
肺も爪もついでに心も黒くなってしまえ。
それでも僕の中身はまだ煤けてはくれない。

何を語っても自分が本当のことを語っている自信がない。
うつむいたまま「嘘つきです」という他はない。
だから「この大嘘つき野郎め!」と言われてもその通りだと思うしかない。
と思うことも、陳腐な言い訳だと考えて憂鬱になる。

自殺掲示板で「痛みを知っているから他人にも優しくなれるんだよ。」というフォローを見た。

痛みを知ったら他人に無関心になる気がする。
他人と痛みを共有することなどできない、ということを学習する。

話したい人が勝手に話していることに逆らうのも面倒だ。
「言って欲しいこと」を言ってあげて相手が喜ぶのならそれでいい。
そうやってただ善人面をしているにすぎない僕を優しいと思うのは愚かだ。

君は僕が気にくわない発言をすれば即刻「あんな人だと思わなかった」と平気で言って回る。
そして僕の本音を見せればすぐ腹を立てる。

大学、サークルなどというほんの小さな集まりにだってそんなくだらない関係がついてまわる。
自覚がないということはなんて恥ずかしいことなんだ。
彼彼女らのよくわからない示威行為には全く感心する。

しかし僕の言う「君」「彼」「彼女」には僕自身も含まれている。
不特定多数を指示しているわけではない、つまり他人ごとではない。

「恥ずかしくて嫌だ」と感じていることを自覚なしにやっているから(あるいはきっとやっているのだろう、という予感があるから)羞恥でいっぱいになる。
と書くこともやはり恥ずかしい。
と書くところも嘘っぽい。

嫌になる。

ある時期を過ぎ、ものを「よいのか、悪いのか」という基準で考えるのが全く意味のないことだと知った。僕の思うことは何しろ僕が思うのだから間違っているはずがない。また誰か他人が言っていることも間違ってはいないだろう。

いつもそう思っているから否定できなくなる。
聞くことしかできなくなる。
意見を求められても、いやその通りなのだろうから何も浮かんでこない。
自分を、その自尊心を侵害するような場合に限り、僕の防衛本能は屹立する。

僕が悪いんです。と自分を責めるその無責任。
自分を責めるでもなく他人を責めるわけでもなく、ただ無責任。

めんどうくさいのか?
なら死ね。

1997年12月20日(土)
23歳

未明。

憂鬱:気が晴れないこと。心配事があって心がふさぐこと。

辞典の言葉は退屈で、
僕は僕の辞典を書き換える。

憂鬱:
理由はない。
あったとしてもごくごくささいなことで、気が晴れない。
ということはないが部屋でじっと「空気」だけを感じようとしている様。
またその時空間を支配する匂い。

自己嫌悪やある種のかなしみを、ナンセンスだと卑下しようとする自己防衛に対する警鐘。
面倒な関係は極力つくるまいなどとできもしないことを考える冬の空。
雨に濡れていると哀しいのか嬉しいのかわからなくなった夜の公園。

ただただそこに空気だけがある実感。
ただただ心地よい空気。
ただただ煙草の煙りに寄り添った焦点の合わない哀しみ。

なんて。
何もできないまま壊れていく生活をそうして「憂鬱」なんて言葉で誤摩化していく。
できることなら今この嘘寒いとがった空気の中で、
完全に「憂鬱」というものとシンクロできるならば、
そのまま海へ飛び込んでしまいたい。

どこにも欠陥が見当たらないほど壊れてしまいたい。
それをせめてもの言い訳にして生きていけるように。

1997年12月18日(木)
23歳

何千回と口の中で繰り返した、その詩。

塔 吉原幸子

あの人たちにとって
愛とは 満ち足りることなのに

わたしにとって
それは 決して満ち足りないと
気づくことなのだった

<安心しきった顔>
を みにくいと
片っぱしから あなたは崩す
  ──崩れるまへの かすかなゆらぎを
  おそれを いつもなぎはらふやうに──
あなたは正しいのだ きっと
塔ができたとき わたしに
すべては 終りなのだから

ああ こんなにしたしいものたちと
うまくいってしまふのはいや
陽ざしだとか 音楽だとか 海だとか
安心して
愛さなくなってしまふのは苦しい

崩れてゆく幻 こそが
ふたたび わたしを捉へはじめる
ふたたび
わたしは 叫びはじめる
1997年12月11日(木)
23歳

雨の日のために。

雨の日のために傘を置かずにいる。
雨の日のために音楽を流す。

痛々しく冷たい雨の夜には
暖房をよして
土で出来た土色のカップに
モカを淹れる、その湯気

毛布にくるまりながら
聞き取れない幽かな音で
バッハの組曲を聴く

灯りは消えたまま
その黒い部屋で
熱くて苦いカップの中から
白い湯気が魂のように窓辺へ逃げてゆくのを
黙って見ている その憂鬱が
僕だけの幸せだとうつむきながら。

雨の日のために、僕はただ
外に出て 濡れることしかできない。
額から 両方の目から あごを伝って
コートにしみこんでゆく
行き場のなくなった痛々しい雨に
その冷たさに 慰められる 

僕が
あるいは あともう僅かな時間だけ
乾いてしまわなくていいように