1997年12月21日(日)
23歳

その時間。

また某先輩と飲む。
二人でタバコをふかす。気がふれたようにふかす。
アトリエでも二人でふかす。
肺も爪もついでに心も黒くなってしまえ。
それでも僕の中身はまだ煤けてはくれない。

何を語っても自分が本当のことを語っている自信がない。
うつむいたまま「嘘つきです」という他はない。
だから「この大嘘つき野郎め!」と言われてもその通りだと思うしかない。
と思うことも、陳腐な言い訳だと考えて憂鬱になる。

自殺掲示板で「痛みを知っているから他人にも優しくなれるんだよ。」というフォローを見た。

痛みを知ったら他人に無関心になる気がする。
他人と痛みを共有することなどできない、ということを学習する。

話したい人が勝手に話していることに逆らうのも面倒だ。
「言って欲しいこと」を言ってあげて相手が喜ぶのならそれでいい。
そうやってただ善人面をしているにすぎない僕を優しいと思うのは愚かだ。

君は僕が気にくわない発言をすれば即刻「あんな人だと思わなかった」と平気で言って回る。
そして僕の本音を見せればすぐ腹を立てる。

大学、サークルなどというほんの小さな集まりにだってそんなくだらない関係がついてまわる。
自覚がないということはなんて恥ずかしいことなんだ。
彼彼女らのよくわからない示威行為には全く感心する。

しかし僕の言う「君」「彼」「彼女」には僕自身も含まれている。
不特定多数を指示しているわけではない、つまり他人ごとではない。

「恥ずかしくて嫌だ」と感じていることを自覚なしにやっているから(あるいはきっとやっているのだろう、という予感があるから)羞恥でいっぱいになる。
と書くこともやはり恥ずかしい。
と書くところも嘘っぽい。

嫌になる。

ある時期を過ぎ、ものを「よいのか、悪いのか」という基準で考えるのが全く意味のないことだと知った。僕の思うことは何しろ僕が思うのだから間違っているはずがない。また誰か他人が言っていることも間違ってはいないだろう。

いつもそう思っているから否定できなくなる。
聞くことしかできなくなる。
意見を求められても、いやその通りなのだろうから何も浮かんでこない。
自分を、その自尊心を侵害するような場合に限り、僕の防衛本能は屹立する。

僕が悪いんです。と自分を責めるその無責任。
自分を責めるでもなく他人を責めるわけでもなく、ただ無責任。

めんどうくさいのか?
なら死ね。