1997年12月10日(水)
23歳

午後。

手紙。

僕はまめで雑な人間だ。
ひとりで思い通りにするのが好きなわがままな人間だ。
人をもてなすのは好きだが、人にもてなされるのは苦手だ。
家にあがりこんで勝手にものを食べたり、ものをもっていっていく人間に憧れる。(皮肉ではなく。)

キャリアウーマンと結婚して、家事をしたり畑をたがやしたりするのが夢だ。
野心が欠落している。「情けない男」と言われる。その通りなので返す言葉がない。

電話をかけない。用事は郵便に頼りたい。携帯電話の通話料は10円だ。
できれば会って話したい。目の前に人がいれば誤解も解きやすい。

通信手段はほとんど手紙。すぐ返事を書く。字を書くのが好きだから。内容はいつも大したことがない。ただカツカツと字を書いている時間が好きだから。

きれいな字でもない。小さな文房具屋で便箋を買い、公園で煙草を吸いながらちまちま書いて、なお小さい郵便局で投函する。日課。ルーティン。

よくしゃべる。
そして必ず後悔する。

人の書く字を見ているとどんな状態なのかわかる。
メールではよくわからない。
電話ではみな嘘をつく。

あなたが書いた字を読む。
少なくともあなたが僕を好きでないことはわかる。

1997年12月11日(木)
23歳

雨の日のために。

雨の日のために傘を置かずにいる。
雨の日のために音楽を流す。

痛々しく冷たい雨の夜には
暖房をよして
土で出来た土色のカップに
モカを淹れる、その湯気

毛布にくるまりながら
聞き取れない幽かな音で
バッハの組曲を聴く

灯りは消えたまま
その黒い部屋で
熱くて苦いカップの中から
白い湯気が魂のように窓辺へ逃げてゆくのを
黙って見ている その憂鬱が
僕だけの幸せだとうつむきながら。

雨の日のために、僕はただ
外に出て 濡れることしかできない。
額から 両方の目から あごを伝って
コートにしみこんでゆく
行き場のなくなった痛々しい雨に
その冷たさに 慰められる 

僕が
あるいは あともう僅かな時間だけ
乾いてしまわなくていいように

1997年12月18日(木)
23歳

何千回と口の中で繰り返した、その詩。

塔 吉原幸子

あの人たちにとって
愛とは 満ち足りることなのに

わたしにとって
それは 決して満ち足りないと
気づくことなのだった

<安心しきった顔>
を みにくいと
片っぱしから あなたは崩す
  ──崩れるまへの かすかなゆらぎを
  おそれを いつもなぎはらふやうに──
あなたは正しいのだ きっと
塔ができたとき わたしに
すべては 終りなのだから

ああ こんなにしたしいものたちと
うまくいってしまふのはいや
陽ざしだとか 音楽だとか 海だとか
安心して
愛さなくなってしまふのは苦しい

崩れてゆく幻 こそが
ふたたび わたしを捉へはじめる
ふたたび
わたしは 叫びはじめる
1997年12月20日(土)
23歳

未明。

憂鬱:気が晴れないこと。心配事があって心がふさぐこと。

辞典の言葉は退屈で、
僕は僕の辞典を書き換える。

憂鬱:
理由はない。
あったとしてもごくごくささいなことで、気が晴れない。
ということはないが部屋でじっと「空気」だけを感じようとしている様。
またその時空間を支配する匂い。

自己嫌悪やある種のかなしみを、ナンセンスだと卑下しようとする自己防衛に対する警鐘。
面倒な関係は極力つくるまいなどとできもしないことを考える冬の空。
雨に濡れていると哀しいのか嬉しいのかわからなくなった夜の公園。

ただただそこに空気だけがある実感。
ただただ心地よい空気。
ただただ煙草の煙りに寄り添った焦点の合わない哀しみ。

なんて。
何もできないまま壊れていく生活をそうして「憂鬱」なんて言葉で誤摩化していく。
できることなら今この嘘寒いとがった空気の中で、
完全に「憂鬱」というものとシンクロできるならば、
そのまま海へ飛び込んでしまいたい。

どこにも欠陥が見当たらないほど壊れてしまいたい。
それをせめてもの言い訳にして生きていけるように。

1997年12月21日(日)
23歳

その時間。

また某先輩と飲む。
二人でタバコをふかす。気がふれたようにふかす。
アトリエでも二人でふかす。
肺も爪もついでに心も黒くなってしまえ。
それでも僕の中身はまだ煤けてはくれない。

何を語っても自分が本当のことを語っている自信がない。
うつむいたまま「嘘つきです」という他はない。
だから「この大嘘つき野郎め!」と言われてもその通りだと思うしかない。
と思うことも、陳腐な言い訳だと考えて憂鬱になる。

自殺掲示板で「痛みを知っているから他人にも優しくなれるんだよ。」というフォローを見た。

痛みを知ったら他人に無関心になる気がする。
他人と痛みを共有することなどできない、ということを学習する。

話したい人が勝手に話していることに逆らうのも面倒だ。
「言って欲しいこと」を言ってあげて相手が喜ぶのならそれでいい。
そうやってただ善人面をしているにすぎない僕を優しいと思うのは愚かだ。

君は僕が気にくわない発言をすれば即刻「あんな人だと思わなかった」と平気で言って回る。
そして僕の本音を見せればすぐ腹を立てる。

大学、サークルなどというほんの小さな集まりにだってそんなくだらない関係がついてまわる。
自覚がないということはなんて恥ずかしいことなんだ。
彼彼女らのよくわからない示威行為には全く感心する。

しかし僕の言う「君」「彼」「彼女」には僕自身も含まれている。
不特定多数を指示しているわけではない、つまり他人ごとではない。

「恥ずかしくて嫌だ」と感じていることを自覚なしにやっているから(あるいはきっとやっているのだろう、という予感があるから)羞恥でいっぱいになる。
と書くこともやはり恥ずかしい。
と書くところも嘘っぽい。

嫌になる。

ある時期を過ぎ、ものを「よいのか、悪いのか」という基準で考えるのが全く意味のないことだと知った。僕の思うことは何しろ僕が思うのだから間違っているはずがない。また誰か他人が言っていることも間違ってはいないだろう。

いつもそう思っているから否定できなくなる。
聞くことしかできなくなる。
意見を求められても、いやその通りなのだろうから何も浮かんでこない。
自分を、その自尊心を侵害するような場合に限り、僕の防衛本能は屹立する。

僕が悪いんです。と自分を責めるその無責任。
自分を責めるでもなく他人を責めるわけでもなく、ただ無責任。

めんどうくさいのか?
なら死ね。