1997年11月2日(日)
23歳

愛する季節、時間帯、日暮れ

とろとろと溶けていきそうな秋、夕暮れ。
ふと気付くと窓の外は暗い。
心の中に不確かな高まりを感じながら、一日何箱めかのタバコを買いに出る。

吉原幸子は「おそろしさとは/ゐることかしら/ゐないことかしら」と書いた。
二十歳を過ぎてから「さびしい」「かなしい」がピンと来なくなりつつある。
それにとってかわったのはどうしようもない不在感。

立原道造「晩秋」より抜粋

あはれな 僕の魂よ
おそい秋の午后には 行くがいい
-
おまへが 友を呼ばうと 拒まうと
おまへは 永久孤独に 餓ゑてゐるであらう
行くがいい けふの落日のときまで
-
すくなかったいくつもの風景たちが
おまへの歩みを ささへるであらう
おまへは そして 自分を護りながら泣くであらう
1997年11月3日(月)
23歳

晴れた日は嫌い。祝日、の疲れた夜。

web上で書く日記は安いエンターテイメントでしかない。

「日記」という体裁を利用した欺瞞ショーだ。この1ヶ月でよくわかった。
演技じみてけばけばしい自分が憂鬱だ。

あまり他人ごとに関心がない。
不特定多数の人に向って何か言わなきゃならない、言いたいことがあるのはすごいことだ。
もちろん皮肉だ。

芸術学などというものを専攻している。
専門書を読み、詳しく史実を調べ、「ゲージュツとはナニカ?」を考えれば考える程、それを言葉で表現するのが恥ずかしい。

言葉はいやおうなく冷める。
僕の大事な部分をわざわざ人前で訳知り顔にしゃべるのは面映ゆい。
罪悪感とか贖罪という言葉をよくひきあいに出すのはそのせいだ。

君に伝えたいことは何もない。
あったとしても言いたくない。

1997年11月4日(火)
23歳

本、の夕方。

「ナチュラルウーマン」
松浦理英子著
トレヴィル発行

同性愛のお話。
河出から出ていたのを持っていたが、河原町で見かけたのでトレヴィルの方も買った。

同性愛者の友人がいる。僕はよくわからない。
わかろうとしていないのか、わかりたくないのか、
それもわからない。

夜話す。
夜に話すといつもおかしな話になる。
泣いてばかりいる子猫ちゃん。
おれは犬のおまわりさんにはなれない。

1997年11月5日(水)
23歳

タバコを吸う、の夜。

大学にくるまでは大嫌いだった。夜中の公園で格好づけに一口二口吸ってみたことはある。吸い方を知らなかったのであれは吸ったことにはならない。

いつの間にかタバコをくわえていないと人と話せないヘビースモーカーになってしまった。日記を書く時、絵を描く時、人と会う時、いつも手放せない。きっかけには思いあたることがある。

先日ニュースでタバコに精神安定効果がないことが証明されたと報じていた。まあそうだろう。大体のことは気のせいだ。死にたい気分も、幸せも。

格好つけてるだけだと君は嗤うが、格好をつけることをなぜ嗤うのか理解できない。
君たちは素の自分がそんなに魅力的なのか?
大した自信だなと僕もまた嗤う。

ああ、そういう醜さ。
そうした醜怪で低劣な言葉を吐くかわりに僕は煙を吐き出しているのだ。

1997年11月7日(金)
23歳

音のない世界、午前3時。

調子がよくない。最近割に安定した日々を送っていただけに、なおさら調子悪く感じる。嫌なこと辛いことなんて、ずいぶん前に遠い田舎のタバコ屋に置いてある赤い公衆電話に捨ててきたはずだった。
ああこんなことを言い出すのはどうもよくない知らせだ。虫の知らせ。硬い表皮を持った無言で這いずる黒い虫の知らせ。

自分を書き過ぎることに対して焦りや痛みを感じる。
こんな夜は中途半端にうなだれていないで、本格的にうらぶれてしまえばいい。
二十歳以降、必要以上の大袈裟な喜怒哀楽が減った。それはあるいは人間の単なる遺伝子的な必然かもしれないし、それとは違ったもっと俯瞰的な何かかもしれない。今日、この時間、この部屋で感じている言い知れない沈滞の澱は、言い訳や嘘を生への代償として容認せざるを得なかった自分に対する救済なのかもしれない。

音はなにも聞こえない。灯りを消す。

過去の日記をひらいて自分のためだけに泣いてみようかと思ったりする。
格好悪いと反射的に思ってしまう自分を羞じる。

僕はそんなセンチメンタルでは泣けない。
タバコに火をつける。
字が読めない程度に、ぼんやりと日記帳の影だけが浮かび上がる。